池上彰と考える「死」とは何だろう

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池上彰さん著の本書は死についての理解を深め、また宗教との違いについて詳しく解説しています

誰もがいつか訪れる「死」というテーマです

死について知識を深めることは、自分の生き方について深く考える作業となります

この本を読んだ後、1日1日を大切にしようと思える1冊です

要点ポイント、学んだ点

宗教によって様々な死生観がある

スティーブ・ジョブズはスピーチで「毎日を人生最後の1日と思えるか」、「死は生命の最高の発明」、「いずれは年老いて、消えゆく」と語っている

キリスト教カトリックでは、死をすべての人に与えられた罪とし、死の間際に生前の罪を悔い改めなければならない 

カトリックの葬儀は儀式重視、さらに「生前の許しを請う」ことが目立つ

プロテスタントの葬儀は「故人が生涯を全うしたことを神に感謝する日」と捉える

キリスト教では「死は、神のもとへ行くこと」

遺族にお悔やみの言葉は不要であり、言葉をかけるなら「安らかな眠りをお祈りいたします」「故人様の平安をお祈りいたします」となる

キリスト教徒にとって死は「神のもとへ行くこと」で悲しむべきことではなく、祝福されるべきことである

イスラム教では「現世」と「来世」があり、今生きている現世は仮の世界、来世こそが本当の「生」と考えられている

死は来世への通過点、大切なのは来世であり、現世の行いによって天国と地獄に分けられる

天国に行くために現世で厳しい戒律を守っている

仏教の考え方「輪廻」とは故人が死後、別の世界で新たに生まれ変わること

故人は死後、六道のいずれかに生まれ変わることになるが、どこに生まれ変わるかは生前の行い次第

悪い世界に生まれ変わってしまっても、僧による追善供養で故人は徳を積むことができ、場合によってはより良い世界にもいけるとされている

仏教では「故人が徳を積むと、やがてその善行が生きている者に返ってくる」と考えられ、追善供養は残された遺族を救うことにもつながる

神道では死後の世界を「黄泉」という

神道の神典である「古事記」からの神話により黄泉の存在こそが、死が汚らわしいと考えられる理由となる

死の直前に、他人には見えない人や存在をみる「お迎え現象」というものがある

看取る側の家族もお迎え現象によって覚悟ができ、穏やかに最期まで過ごす豊かな時間になり得る

最期の看取り・お別れができず突然大切な人がいなくってしまうことを「あいまいな喪失」という

あいまいな喪失では、喪失つまり死が実感できないことから、日常生活に戻りにくいと指摘されている

宗教学者が考える死

死について語り合うことは、ある種の死ぬトレーニングになる

死について語り合えるホームドクターや宗教者がいればいい

仏教的には、身近な人が死ぬことが起こりうるんだという覚悟が必要

いじめにあっている子供に向けて、思い通りにならないことはわかっているけど、自分にできることはないか一緒に悩ませてほしい、という態度で向き合う

いろんな価値観の人と出会う機会を作り、世界を広げていくサポートをする

子供には自死はダメだけではなく、自死したらどれほど辛いか、との思いを伝えていくのも大事

仏教では生きるということは、思いとおりにならないこと、その上でどう生きるかが大切

安楽死法ができたら、ALSの患者に対し、声に出さなくても「まだ生きているのかよ」みたいな雰囲気になる、生きていけなくなる危険性が高い

背極的安楽死を肯定すると、「自分だったらその状態なら死ぬな」と言ってるようなことになる、その人の生を否定したくないので、軽々しいことは言えない

まとめ

死について考えることは普段あまりないという人が多いと思います

誰もいつか訪れるものですし、いつ訪れるかもわかりません

死を意識することで死ぬ前に後悔なく生きようと、毎日を充実させようと感じるはずです

もし残された日が短いなら本当に自分がしたいこと、必要なことに時間を使いたいと思うはずであり、それは家族との時間だったり友達との時間だったりするかもしれません

毎日本当に大切にしたいことに時間を使うことができれば1日1日がとても充実した日々になるのではないかと思います

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